10万石の化粧料を与えられたといわれる。翌年の元和3年(1617年)、本多家が播磨姫路に移封になった時には8月28日に桑名を発って姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになる。夫・忠刻とも夫婦仲睦まじく、翌元和4年(1618年)には長女・勝姫、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれるが、元和7年(1621年)に幸千代が3歳で没したのを始め、その後は流産を繰り返すなど子宝に恵まれず(これは秀頼の祟りだと言われた)、寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・熊姫、実母・江が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘・勝姫と共に出て江戸城に入り、出家して天樹院と号す。出家後は娘と二人で竹橋の邸で暮らす。寛永5年(1628年)に勝姫は池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。池田家に嫁いだ一人娘のことを心配し、「天樹院書状」を送っている。
寛永20年(1643年)、鎌倉の東慶寺の伽藍を再建する。正保元年(1644年)には迷信を避ける為に江戸城から移った3代将軍家光の側室・夏(後の順性院)とその後生まれた家光の次男・綱重と暮らすようになる。このことで大奥で大きな権力を持つようになったとされる。明暦3年(1657年)の明暦の大火で竹橋の邸が焼失した時には、紀州徳川家の屋敷に一時寄留する。寛文6年(1666年)江戸で死去享年70。
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亡くなった夜祖父家康の母於大の方(おだい)の菩提寺である小石川伝通院(傳通院、でんづういん)に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり,また徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の総本山である京都の知恩院(華頂山知恩教院大谷寺)に定例により分骨され宝塔に納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に「寂照寺」を開いた。戒名天樹院殿栄譽源法松山禅定尼。
錦絵や浪曲でよく語られる、御殿から男を誘い込んで弄び、それらの男を全員殺したという「吉田御殿の話」が伝説として生まれている。